AIの限界と可能性について

 いわゆる「生成AI」を自分の表現手段として使用しないことは、すでに宣言したとおりです

 適当ないくつかのPrompt(または対話)を与えて、テキストなり画像なりの結果を得るというプロセスは、それほど楽しいものとはいえません。なんだか、機械の腹を勘ぐりながら、進めていくという感じです。

 生成AIの作曲にいたっては、実用的なレベルにも達していません。

 確かに作りこむほど生成物が精緻になる、という印象はあるのですが、最終結果にいたるまでに、不快な誤りを見つけて除去していくという性質の作業は、私の性格には合わないと感じています。


 時間の節約になるという意見もあるようですが、生成AIの使用には、やはり微妙な労力と習熟が求められます。

 そもそも真に創造的な人ならば、生成AIなど必要としないでしょう。ただでさえPCに向かう時間は長いので、これ以上、そのような操作時間を割かれるのは無意味です。

 本当に創造的なリアルの友人を見つけて、そのような人と接する時間を大切にすることをお勧めします。


 さらに付け加えるならば、最終生成物を仕上げた後に、その際の達成感というものが感じられません。これは創造性に対して致命的です。

 それに、精緻に仕上げたにもかかわらず、機械が生成したものという印象(いわゆる不気味の谷といわれるもの)を、完全になくすことはできないように思います。


 例えば、ビジネスメールをChatGPTで作成するという、ありがちな使用例では、用件だけでよくて、後は単なる形式という状況には合うかもしれませんが、単なる外交辞令とは言え、心がまるでない形だけのものを受け取る側はどういう気持ちになるでしょうか。

 まさか、本気のラブレターをChatGPTで生成する人とか、いないでしょう?


 そんなわけで、生成AIについては、早々に見限ってしまった私です。


 しかし歌声生成については、例外的に今後も使用していきたいと思います。いわゆるこの種の非生成系AIにおいては、学習済みの中の人のデータベースしだいで、そのキャラクターが7割程度決まってきます。

 それを自分の楽曲にどのように適合させるかは、本質的にDTMにおける作曲と同様であり、自分の音楽経験と勘どころが必要とされるものとなります。この場合にAIは、機械的な手作業を軽減してくれることでしょう。


 それに、どんなにAIが進化したとしても、生きた人の歌唱の領域に踏み込むことは、最終的に不可能だと感じています。それは、かつての1970年代のグランドオーケストラの響きが、DTMでは再現不能であることと似ています。

 なので個人的には、これまでの機械的なDTMと、生歌との間の境界に広がっている、新しくて心地よい表現領域を目指して、その可能性を追求してみたいと思っています。